Wols (Otto Wolfgang Schultze)

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ヴォルス「舟」

ヴォルスの舟
Otto Wolfgang Schultze
Le bateau (舟)
水彩・ペン

ヴォルスの絵には、混沌とした苦悩の中で制作された作品だけが持つオーラがある。ヴォルスは恵まれない生涯を早くに終えてしまい、現存する作品が極端に少ない。日本ではめったに見ることがない。展覧会も2005年9月に川村記念美術館で「漂泊の天才ヴォルス・震える線描」展が開催されている位である。私は苦しさの中でも作品を描き続けたヴォルスを傍において、苦悩の中で画家がどのように作品を生み出していたのか、その秘密を知りたかった。

ヴォルス(1913-51)は、若くして写真家として成功を収めた後、第二次世界大戦の混乱の前後にかけて独特の絵画を制作し、その名を不朽にした画家である。本名をアルフレッド・オットー・ヴォルフガング・シュルツェ(Alfred Otto Wolfgang Schulze)という。その頭文字をとってWoIs(ヴォルス)と呼称した。

ヴォルスの作品を理解するためには、彼が、ワイマール共和国が崩壊し、第二次世界大戦の悲劇の中に生きたということを、とりわけ念頭に置かなければならない。ヴォルスの作品は、繊細で、生きることに不得手な人間が、混乱と荒廃の中で生みだし、中断し、そして再出発した芸術なのである。

ヴォルスは1913年、ベルリンに生まれている。父親は、ワイマール憲法の起草にも参加した官僚であり、音楽と美術に造詣の深い教養人であった。彼の家には、画家のオスカー・ココシュカやオットー・ディックスをはじめ著名な音楽家や学者が出入りし、幼いヴォルスに少なからぬ影響を与えたと言われている。そのためか、ヴォルスは子供の頃より多方面に才能を発揮した。とりわけヴァイオリン演奏に秀で、コンサートマスターになれるほどの技量を身につけていたが、彼は音楽家にはならず、写真家となり、そして画家となった。

ワイマールの時代は、文化的には非常に華やかで精気あふれる時代であったが、政情は極めて不安定で、経済的にも慢性的なインフレが続き、失業者の多い時代であった。そのためワイマール共和国は1933年、ヴォルスが20歳の時に、ナチスドイツに取って代わられてしまう。ヴォルスはほとんど独学で写真を撮り続け、当時大写真家として名声のあったフーゴー・エルフルトに自分の作品を見てもらったところ、もはや教えることは何もないと激賞された。1932年、19歳の時には、早くも写真家としての才能が評価されている。1937年には最初の肖像写真展を開催し、成功を収め、パリ万国博覧会の専属カメラマンに任命されている。その超現実主義的な作風は、当時のシュールリアリズムのわざとらしさが無く、かえって無気味な雰囲気を醸し出している。ヴォルスはパリの街並みや汚れた壁などを独自の視点で撮影し、写真家として非常な成功を収めるのである(日本でもヴォルスの写真を横浜美術館が多数所蔵している)。

ヴォルスは写真以外にも様々な仕事につき、そのたびに才能を発揮するのだが、自分の進むべき道ではないと予感して、どれも中途半端で止めている。それはおそらく、自分自身に本当に関心を持つ人間として、自分とは一体何者なのかという真摯な問いかけからくる選択に違いない。それでもヴォルスの作品を振り返る時、若い頃に学んだ船の操縦や、動物飼育の実体験がモチーフとして息を吹き返すのである。

ヴォルスは様々な経験をするが、最後に絵画を選び取った。ヴォルスは写真家として評価を得た1932年に、写真家としてではなく、画家としてやって行こうと決心し、バウハウスへ赴きクレーに師事する。しかしその時既にバウハウスは政治的圧力によって、風前の灯であったため学校でほとんど学べなかったようだ。その年のうちに、ヴォルスはパリに移り、写真家として働きつつ抽象的で超現実主義的な絵画を描き始めるのだが、容易に画業に専念することができなかった。風変わりな芸術家気質の外国人ゆえに、危険人物として当局よりマークされ、反ナチス的言動によって旅先のスペインで投獄されてしまう。強制送還されたフランスでは、今度は敵国人として収容所入りの憂き目に合ってしまう。

1940年にフランス人のグレティと結婚し、ようやく釈放される。戦後、数々の作品を発表し、アンフォルメル運動の先鞭をつけたが、収容所に抑留されていた時代から洒に溺れ始め,アルコール中毒から回復することができず、38歳の若さで死んでしまう。

ヴォルスの人生を眺めていると、あり余る才能に恵まれながら、不幸に苛まれ、何事もなせずに死んでしまった芸術家のように思いがちだが、「生の不条理」を現わそうとするかのようなその作品は、今も私の胸に迫る。ヴォルスを積極的に評価した実存主義哲学者(とりわけサルトル)の哲学的意味がわからなくても、そこには何か断固たる警告が発せれているように感じるのであった。

                    

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